今回は(「その3」にしてやっとですが…)「学びあい」本体について取り上げます。

私にとっての(私の授業を受けている生徒にとっての)「学びあい」の意味は、その1でも紹介しましたが、「効果的な思考ルートの獲得」にあります。

一人の人間が考えることができる範囲あるいはルートというのは限られています。なぜなら私たちが持っている知識や経験が限られているからです。
この知識や経験は学習を通して、あるいは生きていく過程で「徐々に」は増えていくので、時間をかければ思考ルートは増やせるわけですが、
実はもっと「てっとり早く」増やす方法があります。それが「思考ルートを共有する」という方法です。

同じ課題(たとえば入試問題でもよいのです)を解決する場合、一人ひとり考え方が異なります。似たような切り口のものもあれば、自分が全く思いもつかなかったような切り口で考えている仲間もいます。
特にこの「自分には思いもつかなかったような切り口」は自分一人で勉強している(考えている)だけでは文字通り「思いつかない」ものです。思いつかないことを自分一人で思いつくようにするために膨大な時間をかけることは、無駄だとは思いませんが、時間のロスが大きいことは確かです。対投資時間効果が極めて低い学習(取り組み)です。

そのような非効率な努力をするよりも、その「思いつき方」、つまりその「思考ルート」を仲間と一緒に体験的に学習し、身につけ、余った時間は別のことに費やすほうが間違いなく効果的でしょう。
同じ課題についても解決のルートはいろいろあること、課題によっては、その解決策(答え)もいろいろあることを、互いに自分の「思考ルート」を発表しあい、質問し、話し合うことを通して、共有し、自分にないものを仲間から体験的に学ぶことで、本来は限られている自分の「思考ルート」は短時間で飛躍的に増加していくのです。


ところが、残念なことに、小学生のころから「たった一つの正解にたどり着くこと=課題(問題)を解決すること」と思い込んできた生徒は、この「学びあい」がなかなか上手にできません。「たった一つの正解」を求めてしまうんですね。

教師が授業で生徒に「教える」ことも、実は「一つの思考ルート」を提示しているにすぎません。にもかかわらず、こういう生徒は「先生の言うこと=正しいこと」と頭から思い込んでしまっているので、いろいろ「考える」よりも先に「正解」を求めますし、教師が示した「一つの思考ルート(案)」をノートに写すと、それで満足してしまうのです。これでは「思考ルート」を増やすことなどできません。

このタイプの生徒は、学校にいるうちはまだよいのですが、社会に出てからは恐らくあまり使い物にならないでしょう。「人手」になることはできても「人材」になることはできないと私は思っています。
(この点については、次回取り上げます。)

ですから私の授業では、高校1年生はもちろんですが、高校3年生の入試問題演習の授業においても「学びあい」の時間が非常に多く設けられています。
「学びあい」を通して、受験偏差値など足元にも及ばない「価値ある力」を生徒たちは獲得してくれているのです。